居合塾.jp

 
 

澤庵宗彭    たくあんそうほう


作家、水上勉は沢庵の禅は  純粋禅  だという 

沢庵は、天正元年12月1日(1573年12月24日)に秋庭綱典の次男として但馬国出石(現 兵庫県豊岡市)に生まれる(幼名不詳) 武士の子である 幼少のころから鋭い感性で豊かにものを見る、文武に優れていた子であったという  

父・綱典は但馬国主山名祐豊の重臣であった

8歳のとき但馬の守護山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴(豊臣)秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した 

天正10年(1583年)、10歳で出石の唱念寺で出家する 

当時は出家は武士の子でなければできなかった 

天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事 秀喜と改名  天正19年(1591年)、希先西堂が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになる 


文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京し、沢庵もこれに従い大徳寺に入る 大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した 

慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交があった春屋に住職の派遣を依頼した  

 春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごす 

関ヶ原の戦いの結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、春屋のところに落ち延びた この後、春屋と共に処刑された石田三成の遺体を引き取り大徳寺三玄院に葬り手厚く弔っている  慶長6年、薫甫が亡くなった後、和泉国堺に出て、文西洞仁の門下に入った その文西が慶長8年(1603年)に亡くなった後は南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった慶長9年(1604年)8月4日、遂に大悟し、沢庵の法号を得るのである 


慶長12年(1607年)、

沢庵は大徳寺首座となり、慶長14年

(1609年)、37歳で大徳寺の第154

世住持に出世したが、名利を求めない  臨済宗大徳寺派大本山龍寶山大徳寺

沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻ってしまう 元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入った 


紫衣(しえ)事件 というのがある 

江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなる また、檀家管理も厳しくなり、寺に近隣住民農民の管理を目的とする 人別帳 制度を設けた 現在における戸籍である 特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度 によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた 

幕府の付けた条件のひとつに、こうある 


参禅修行親善智識三十年費綿密工夫 

千七百則話頭了畢之上 

参禅は30年の修行が必要である * 

そのうえ、1700の公案を了知していなければならない 

(ここで30年という言葉がでてきた 次の 剣と禅 剣禅一如の “更に参ぜよ三十年”とは、この禅の修行年数を意味するものと受け取れる)

 

寛永4年(1627年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた 

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた 幕府は事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代  板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた これに反発した沢庵は京に上り、玉室宗珀、江月宗玩と共に大徳寺の僧をまとめた後、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行い、寛永5年、抗弁書を書き上げて幕府に提出した 

この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われることとなり、その問責のため、寛永6年(1629年)、江戸へ召喚されることとなった 江戸城内での弁論の結果、同年7月に幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵を出羽国上山に、また玉室を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした 

この事件に怒った後水尾天皇は、天皇譲位にまで及ぶ 

沢庵57歳のことである 


流罪先である上山藩藩主の土岐頼行は、沢庵の権力に与しない生き方と 心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともないとする姿にうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど手厚く遇した 沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれている 


寛永9年(1632年)、沢庵60歳の年に、徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許される 

寛永11年(1634年)玉室と共に大徳寺に戻った時、将軍・徳川家光の上洛に際し、柳生宗矩らの強い勧めにより沢庵は家光に謁見する  この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになったという その後、寛永13年(1636年)に家光に近侍することとなるのである 

江戸においては、柳生宗矩の下屋敷に逗留し、家光の召しに応じて登城して禅を説いた 寛永16年(1639年)67歳の時、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなる  

寛永18年(1641年)、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を復興することが家光より正式に申し渡され、これにより両寺は従前通りの出世入院が認められ、また幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣奪還も行われている こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は永く続くことになったのである 


正保2年12月11日(1646年1月27日)、

73歳の時、沢庵は江戸で没した 死に

際し、弟子に辞世の偈を求められ、

」の一文字を書き、筆を投げ

て示寂したという  墓碑は建ててはならぬ の遺誡も残している 


当時は代表的禅僧として知られ、また、受け答えも当意即妙で、禅の教えを身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から慕われ、書画・詩文に通じ、茶の湯にも親しみ、また多くの墨跡を残している 

徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けている しかしながら、沢庵自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことはなく、あくまで自らは一禅僧に過ぎないとし、名利を求めぬ反面、大徳寺・妙心寺の寺法旧復のために家光に近侍し、また乞われれば政治的助言も与えている この態度を以って、沢庵は大名好きだという批判を受けることもあったが、寛永18年に寺法旧復が成った際に、そう批判したことを恥じる者が多かったという 家光は乳母である春日局の菩提所として、京都妙心寺に塔頭で本坊の北方に位置する麟祥院を建て、江戸湯島にも天澤山麟祥院を建立した 



不動智神妙録

沢庵は幼少のときは武にも優れていたという  公儀武藝指南役であった 柳生宗矩 の求めに応じ、剣禅一味 (剣禅一如) の境地を説いた  この境地を記した『不動智神妙録』は、禅を以て武道の極意を説いた最初の書物として、武術から武道への流れを開く基になった 武の術から武の道への理、精神論である 武士社会と禅は鎌倉時代から深く関わってきたが、剣の精神と禅の教えの一致の理念はここから始まったのである 

『不動智神妙録』はおそらく武士必読のバイブルとして多くの大名武士が写し広まっていったのであろう 『不動智神妙録』は、柳生宗矩 との書簡をまとめたという説と、沢庵が柳生宗矩 の求めに応じて贈ったとの諸説があるが明確ではない 

この原本は現存していない


柳生宗矩  やぎゅうむねのり

は、元亀2年(1571年)

大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)

の領主で剣術家でもある柳生宗巌

(石舟斎)の5男として柳生庄で生ま

れる 元和7年(1621年)後の3代

将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、柳生新陰流を伝授する  その後、将軍に就任した家光からの信任を深め、寛永6年(1629年)、但馬守に任官する 

  さらに初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名・朝廷貴族の監察を任とした 

沢庵は柳生宗矩とは若い頃から交流があったとされる 時には諫言し、時には頼るなど、その親交は長く深い また宗矩の息子である柳生三厳 (十兵衛) からも慕われ、こちらにも様々に教授したという 


自身の禅を自分一代で断絶させるように命じ、師の法を弟子に継がせる嗣法(しほう)を家光や後水尾上皇から求められてもこれを拒否し、最後まで嗣法の弟子を定めず、遺戒においては自身の禅を継いだと称する者は にせもの である とまで言っている  また、自らの事蹟を残さないようにも命じているが、後に門人・武野宗朝が『東海和尚紀年録』を記し、 墓碑は建ててはならぬ の遺誡を残している が、


円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)






と、萬松山東海寺(東京都品川区)

に墓がある    



このように、沢庵宗彭 の説法

は剣と禅を語るうえでの象徴

として武士社会に浸透してい

ったことが分る 

武士と禅との関わりは遠く鎌倉時代以降の乱世を経て徳川の太平な時代になって戦が消えた後、剣と禅の精神史は明らかに刻まれ始め確立したといってよい 


逸話も多く残されている 

ダイコンの漬物であるいわゆる 沢庵漬け は沢庵が考えたと伝えられ、あるいは関西で広く たくわえ漬け と親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたという 

徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り たくわえ漬にあらず沢庵漬なり と命名したと伝えられている

東海寺の墓にある石を 沢庵石 といい、沢庵を漬ける時の重石として命名され知られている  

 

吉川英治の小説『宮本武蔵』では武蔵を諭すキーパーソン的な役割を担って登場しているが、史実において武蔵と沢庵の間に接触のあった記録は無い 

吉川英治自身も 武蔵と沢庵の出会いは、自身による創作である と明言している 





剣と禅  其の2 剣禅一如


剣の精神史そして武士道



剣者であり、禅者でもあった無外流剣術流粗  辻 月丹 は、

剣と禅は一如である とし、その内容・文章 の充実さに於いて一流とされる月丹が著した伝書「無外真伝剣法訣並序」の末文に、 「右無外真伝の剣法は禅理をもって教導致すところ、貴殿禅学御了知の上 当流の剣法御懇望且つ御篤志につき…」とあり 、門弟達にも参禅させ、禅学了知の上でなければこの「無外真伝剣法訣並序」を授けなかったとされております 

では、剣と禅はなぜ 一如 なのか ... 


剣者であり禅僧でもあった、大森曹玄の「剣と禅」(春秋社)、

この書は「剣の道」とは、勝敗に関わることなく生死を越えて真実の人間を完成する「人間の道」であるとして古来の剣豪剣客たちがいかにして深奥な剣禅一如の妙境に悟入したかを説いた書です この著書記述からその一部を紹介します 


(はしがき から)

・・・剣はその発達の歴史をみれば武士が真の武士たるための必須の修練、教養として学ばねばならないものであったのは日本人であれば誰でも知るところ その主旨は人間形成の心身を鍛えると云うものであったことは明らかであったが、ただその技が闘争の形態から勝敗に関わることは殺伐とした歴史とともにあった 

剣の本来の主旨は、勝ち負けを超えた人間本来の根源的な主体を剣のはたらきの上に発露して、自在を得ようとするのが剣の道というものである 


その書の、辻(都治)月丹の章から 

以下、原文のまま

  

...  剣と禅とがその極致、ねらいどころにおいて一致することは間違いない そういう意味でいうならば「諸道に通ず」といわれる禅と一致しないものはひとつもないであろう 茶も花も書もみな禅と一致する それをもう一歩ふみこんで、はっきりと自分の剣は禅だと主張した者はないものだろうか 


ここにひとり、寛文から享保にかけて名を謳われた剣客に都治(辻)月丹がいて、明瞭に自分の剣は禅だと主張している (中略)... かれの伝書ほどその内容、文章等において充実したものはちょっと見当たらないと思う 古今随一だとは言えないまでも、少なくとも一流中の有力な一つであることは疑わない 一体に剣者には無学なものが多く、勿体ぶった伝書は大てい儒者か僧侶の代筆に成ったものである 

一刀流の仮名字目録といわれる免許状が、平仮名のたどたどしい文章であることが、かえって始祖一刀斎自身の手に成ったものだろうと珍重されるなどは、その反証だといってよい 

かれの撰した皆伝の伝書を「無外真伝剣法訣」という わたくしの想像では、たしかに月丹自身の書いたものだと思う その伝書の末尾にこう書いている 

 

 右無外真伝の剣法は禅理を以て教導いたす処、貴殿禅理学

 御了知の上。当流の剣法御懇望、且つ御篤志につき 云々 


これらをみても明らかなように、この流儀は禅理をもって教導するのだから、必ず禅をやり、しかもそれが「了知」といえる程度に達していなければ許さないのがたてまえである 


明治以後のことは知らないが、それ以前はこのたてまえが厳守されたものと思われる わたくしの接した、そして伝書を写させてもらった無外流皆伝の前野先生は禅も印可の老居士であった このように真っ向から禅をうたっている流儀、あるいは伝書は、剣禅一致といわれる剣の世界においても稀有のことであろうと思う 


わたくしは寡聞にして無外流の外には、まだ一つも見ていない 


月丹の高弟森下権平辰直は「無外流にては術ということを忌む

 よって兵法の、兵道の、剣法のというなり またこの流については、真ということを宗とするなり」と語ったという(平井道雄氏『土佐武道史話』) つまり、かれの剣は、それによって宇宙の心理、人間の道を究めるという主旨なのであろう 

(中略)無外流伝書には、万法帰一の公案を記したあとで、行をかえて、「更参三十年」と書き、その次ぎに大きく一円相を描いている 

まことに意味深長であり、無外その人の禅心の深さを示すもののようである 都治月丹が、自鏡流の居合を取り入れたといわれている無外流の居合が今日まで伝わっている もと姫路藩の藩外不出のその秘太刀だったといわれる その秘太刀三本のうち、一番向上のものを「万法帰一刀」という 数歩歩んで、腰の高さで横に抜き払うだけのものである その刃音に逃れ去る敵をダラリと太刀を右手に提げて、魯の如く、追いもせずに見送るのみである  

この真境がモノになるには「更に参ぜよ三十年」どころか、おそらく生涯百錬万錬、学び去り、修し来たってもなお容易には至り得ないであろう (中略) 禅でいう「白雲未在」である 永遠になおこれ未在である そこではあるが、そこではない これが極意だ、と思い極めたその境地も、山上更に山ありである 停着することは許されない 「上に上あり吹毛の剣」「更参三十年」、どっかと腰を据えるべき極致とてはない 釈迦も達磨も、修行中である 「尚是未在、尚是未在」と願輪に鞭つのみである 

しょせん肯定は、否定そのものの真っ只中にあるのであろう 

剣人無外が一流の奥義を極め、師の印可を得て一たん教場を開いたのち、更に尚是未在と気づいて再行脚し、苦修二十年にして「一法実無外」と悟入した端的は果たして何であったろうか  かれが末期、坐定して入寂するまで一生受用したその吹毛剣は、上に上ありと伊藤一刀斎の詠じたように一生受用不尽底のものであったろう 十訣を撰し、その末尾に「更参三十年」と記し、一円相を画したとき、かれは謙虚にその自己の心境を吐露したのではなかったろうか 


大森曹玄 著「剣と禅」 春秋社刊 五章 一法無外  より





そして、大森曹玄は他の章で剣の極致と禅理について 


刀剣術の本意は ... 百たび鞘を発し、百たび利を得るとも刀剣の本意に非ず ...   鞘の中  にあり  





剣と禅  其の3  最後のサムライ


剣の精神史そして武士道






山岡 鉄舟  やまおか てっしゅう


幕臣の子である 

天保7年(1836年)7月、御蔵奉行の小野朝右衛門高福(六百石)の四男として生まれた 名は高歩(たかゆき)、通称は鉄太郎という 身長は190センチ近く、体重は100キロを超える巨漢であった 


朝右衛門が飛騨高山の郡代になったので、共に高山に行き、北辰一刀流の井上清虎について剣を、岩佐一亭について入木道の書を習い、安政2年(1855年)講武所に入って腕を磨き、千葉周作をはじめ諸流に学ぶが、文久元年(1863年)浅利又七郎義明に出会ってから剣に迷いが生じ独力で研鑽を積んだ  同じ文久3年、若死にした槍の名人山岡静山の妹、英子(ふさこ)と結婚、山岡家を継いだ 静山の弟は先に高橋家を継いだ泥舟(でいしゅう)、鉄舟と泥舟は義兄弟となる 

幕末の三舟とは、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟 をいう 


安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜とする「虎尾の会」を結成し、文久2年(1862年)、江戸幕府により浪士組が結成され取締役となる 文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る 

清河暗殺後は謹慎処分 この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする 剣への求道が一段と厳しくなり、迷った鉄舟は禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになる 元来仏法嫌いであったらしいが、高橋泥舟の勧めもあり、禅は長徳寺(川口)の住職である順翁について学んだ 

慶応4年(1868年)戊辰戦争が始まり西郷隆盛率いる官軍は3月15日、江戸総攻撃とした 江戸城下が戦場となる事を避ける為に江戸無血開城を決した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった そこで、鉄舟に白羽の矢が立った

 德川慶喜の新政府に殉教する旨の意を受けた鐵太郎は、江戸城総攻撃中止交渉の使者として 勝からの書状を携え駿府へ向かう 3月5日、途中、清水の手前の薩埵峠において新政府軍に遭遇したが、茶屋 望嶽亭藤屋に逃れ、海路 清水へ入る 以後、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府に通る!」と叫び虚をついて官軍関所を強行突破した話しは有名である 慶応4年(1868年)3月9日、駿府(静岡県)で西郷隆盛と会見、勝・西郷会談の下地をつくった 駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む この際、西郷から7つの条件を提示される それは、


一 、 慶喜儀、謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ御預け仰せつけらるべき事 ( 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること )
一 、城明け渡し申すべき事 ( 江戸城を明け渡すこと )
一 、軍艦残らず相渡すべき事 ( 軍艦をすべて引き渡すこと )
一 、軍器一宇相渡すべき事 ( 武器をすべて引き渡すこと )
一 、 城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事 

  ( 城内の家臣は向島に移って謹慎すること )
一 、 慶喜妄挙を助け候面々、厳重に取調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事  ( 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること )
一 、玉石共に砕くの御趣意更にこれなきにつき、鎮定の道相立て、若し暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、官軍を以て相慎むべき事  ( 暴発の徒が暴挙し手に余る場合、官軍が鎮圧すること )
右の条々実効急速相立ち候わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事 ( これら条件が即ち実効されるならば徳川家家名については寛大な処置がなされるであろう ) 



このうち最初の条件だけを鉄舟は拒んだ  

西郷はこれは朝命であると凄んだが、鉄舟は、もし西郷の前の主君、島津斉彬侯が徳川慶喜と同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れ安閑には居られないないはずであると反論した 

さすがに西郷はこの論理をもっともだとして、慶喜のことは任せてくれと認めたのである 

西郷は山岡に真の武士( もののふ )の姿を見た。 

後にその山岡鐵太郎の行動力を、西郷をして


金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない


と賞賛せしめた 

江戸無血開城は勝海舟ではなく実質、鉄舟の働きと言ってよい 


内戦の危機から日本を救った 


維新後、駿府で静岡県権大参事(しずおかけんごんのだいさんじ)、茨城県参事、伊万里県( 現在の佐賀県 )知事を歴任して過ごすが、明治5年(1872年)、勝海舟と大久保忠寛の強い要請で宮内庁に入った  明治天皇の警護役である  

侍従、宮内少輔、皇后宮亮などを歴任 その間、禅と剣の修行に励み、長いあいだ前眼に立ちふさがっていた浅利又七郎の幻影を突き破り無刀流を宣言するに至る 明治も10年も過ぎれば、実戦として剣は全く無意味になっているが、鉄舟としては一種の人生哲学としての意味をもった 

明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため、東京 谷中に禅寺普門山 全生庵 を建立する 明治18年(1885年)には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開き、自宅に 春風館 道場を開いた 「無刀流剣術は勝負を争わず、心を澄まして胆を練り、自然の勝を得るを要す」と説いている   


無我無私、真っ直ぐなひとである 

愚直と思われるほど純粋である 

自らを利せず周りに隔てなく分け与えることで、いつも貧く、ボロ鉄 と呼ばれた 


鉄舟の剣は凄まじく、伝説の400本の連続稽古など猛烈であった 精神修養を重んじる剣道観は近代剣道の理念に影響を与え、現在も鉄舟を私淑する剣道家は多い  

平成15年(2003年)、鉄舟は全日本剣道連盟の剣道殿堂に顕彰された 


禅は竜沢寺(三島) 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、修行の道を求め、臨済宗天竜寺(りんざいしゅうてんりゅじ)の適水禅師(てきすいぜんし)から印可 を受けて大悟したという  

 禅道の弟子に落語家の 三遊亭圓朝 らがいる また今北洪川、高橋泥舟らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した


書は人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される 一説には生涯に100万枚書したとも言われている パンの木村屋本店の称号は鉄舟の揮毫によるものである 


逸話には事欠かない 

子供のころの誓詞が残っている 


1.嘘いうべからず候

2.君の御恩を忘るべからず候

3.父母の御恩を忘るべからず候

4.師の御恩を忘るべからず候

5.人の御恩を忘るべからず候

6.神仏並びに長者を粗末にすべからく候

7.幼者をあなどるべからず候

8.己れに心よからざること他人に求むべからず候

9.腹を立つるは道にあらず候

10.何事も不幸を喜ぶべからず候

11.力の及ぶ限りは善き方につくすべく候

12.他を顧みずして自分をよきことばかりすべからず候

13.食するたびに稼しょくの艱難を思うべし すべて草木土石

 にても粗末にすべからく候

14.ことさらに着物をかざり あるいはうわべだけをつくろう

 ものは 心に濁りあるものと心得べく候

15.礼儀を乱るべからず候

16.何時何人に接するも客人に接するように心得うべく候

17.己れの知らざることは何人にでもならうべく候

18.名利のために学問技芸すべからず候

19.人にはすべて能、不能あり いちがいに人をすて或は笑う

 べからず候

20.己れの善行を誇り顔に人に知らしべからず すべて我が心

 に恥ざるに務むべく候 


ここまででは真面目一本やりの融通の利かない堅物のようにも映る、がそうではない 


明治元年8月、箱館を目指す幕臣たちを乗せた咸臨丸が難破船同然の姿で清水港に入った時、駿府藩は何が何でも、彼らを説得し箱館行きを中止、降伏させねばならないとしたが、駿府藩がもたもたして1ヵ月も空費している間に、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃の上、艦に残っていた副艦長春山弁蔵ら7人を斬殺した 無抵抗のまま斬殺された7人の死体は、海中に投棄された 

駿府清水に船荷役を取り仕切っていた次郎長という男がいた 清水の次郎長である 次郎長は7人を向島の松の木の根もとに手厚く葬った 

「死ねば仏だ 仏に官軍も賊軍もあるものか」

鉄舟は、次郎長は単なるバクチ打ち、ヤクザ渡世人、極道の親分、官軍が駿府に駐留している間、市中警護役として御用をつとめた男、いわば二足の鞋(わらじ)をはく目明かしか岡っ引きぐらいに思っていた 

 ところがそうではない その言、その行動からすれば、次郎長の頭の中には、薩長とか徳川、あるいは征服者とか被征服者といった考えはない あるのは、人間として正しいか、正しくないか、正か、邪かといった物差しだけである 鉄舟は心底から参ってしまう 次郎長と鉄舟の親交は、この咸臨丸事件から鉄舟の亡くなる明治21年まで続いた 


吉原に足繁く通い、性の欲望について真面目に探求し家計が困窮、夫人の懇願によりやめたという逸話もある 


維新前の明治天皇は公家や女官たちに囲まれて、とかく文弱に流れやすい環境にあったが、西郷隆盛はこれを問題視して、明治天皇を近代国家を指導すべき、心身ともに強健な君主に育てようとした そのために、それまでは天皇の側近に侍する者は貴族に限る、というしきたりだったのを改め、各藩から勇壮な武士を集めて、側近につけた その一人として幕臣から選ばれたのが、山岡鉄舟であった 若い頃からひたすらに剣と禅の修行を積み、幕末には江戸に迫る官軍に乗り込んで和平を講じ、内戦の危機から日本を救った鉄舟の人格、胆力に西郷は惚れ込んでいた 鉄舟こそ、天皇を育てるべき人物だと考えたのである 幕臣としては彼ひとりであった

時に、明治5年(1872年)6月、鉄舟37歳の時であった 

明治天皇、弱冠20歳前後の頃である 

ある日、鉄舟たち侍従との酒の席で 鉄舟に相撲を挑まれ、鉄舟を押し倒そうとされた 天皇と臣下、普通なら天皇に勝ちをゆずるであろう しかし鉄舟は、飛び掛られた際に横にかわし、天皇は鉄舟の後ろに倒れてしまわれた 周囲は鉄舟に謝罪を勧めたが、鉄舟はこれに応じず、「陛下と相撲を取ることなど、この上ない不倫であること、わざと倒れるのは迎合することであること またもし、自分が怪我をすれば陛下はどれほど後悔遊ばされるか、もし陛下が私を悪いと仰せられるなら、謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げる覚悟であること、を決然と言う 

明治天皇は鉄舟の言葉をお聞きになり、「私が悪かった」と仰せになったとのことである その旨を伝えられた鉄舟は、「ただ悪かっただけではこの座を立ち兼ねる 何か実行を御示し願いたい」という 困った天皇は、「今後、相撲と酒はやめる」と仰せられた 山岡はそれを伝え聞いて、感涙にむせんで退出したが、そのまま自邸にて謹慎した 一ヵ月後に山岡はようやく宮中に伺候したが、その際に葡萄酒1ダースを献上する 天皇はことのほかご機嫌で、「山岡、もう飲んでもよいか」と仰せられ、山岡の目前で葡萄酒を召し上がったという また、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけるなど、剛直なエピソードが知られている 

明治天皇の信認は厚く10年間、宮中に出仕し侍従として明治天皇に仕えた 


パンの木村屋初代当主 木村安兵衛は水戸藩藩士 鉄舟は木村とは剣術を通じて知り合った 安兵衛と徳川慶喜将軍のお供でしばしば水戸藩に出かけていた鉄舟との出会いだった 茨城から江戸へ出て来た木村は、明治7年に新しく出来た銀座煉瓦街であんぱん作りに熱中していた 鉄舟は木村に試食をさせられると、「これ、うまいじゃないか」とあんぱんの味に折り紙がついた 西洋から入ってきたパンとは違う、酒種を使い、その生地であんを包み焼き上げるという技術が鉄舟の心をとらえた 「陛下に召し上がっていただこう」 

明治8年4月4日、隅田川沿いの水戸藩下屋敷であんぱんが明治天皇陛下へに献上された あんぱんは天皇陛下のお気に召し、ことのほか皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にあった そして「引き続き納めるように」と

両陛下のお言葉を頂いた 

この年、

鉄舟は「木村家」の看板を書

いて贈り、現在も銀座本店の

玄関を飾る 


直筆の書は大正12年(1923年)関東大震災に焼失しており今はない   

ちなみに、この日、4月4日は あんぱんの日 として2001年に日本記念日協会に登録されている 


鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった 受取書が残っている 

またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした  鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま木箱に突っ込んでおいた そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、木箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた しばしばそういう場面を目撃した弟子が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と聞くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた 一説には生涯に100万枚書したとも言われている 

鉄舟はずっと貧乏であった 

しかもそれを苦にさえしていない 

ボロ鉄 は蔑称ではない 

尊敬の愛称である


鉄舟の死について勝海舟がこう言っている 

「山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行

った 明治21年7月19日のこととて、非常

に暑かった おれが山岡の玄関まで行くと、

息子、今の直記が見えたから「おやじはどうか」というと、直記が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している 

おれは座敷に立ちながら、「どうです先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、「さてさて、先生よくお出でくださった ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた それでおれも言葉を返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った

 その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ

絶命してなお、坐をなし、びくとも動かなかったそうだ」… 


山岡鉄舟は明治21年(1888年)7月19日、数え年53歳で大往生した 

19日の明けがた、烏(からす)の啼くのが聞こえた 

そこで、

「腹張りて 苦しき中に 明烏」

と辞世の句を吟じた 


午後7時半、浴室に行き、身を清めて、白衣に着替えた 

9時、一度病床に正座した後、皇居の方に向かって結跏趺座した 

9時15分、周囲のすすり泣きの中、瞑目して往生した

皇居を向き、結跏趺坐のまま絶命 

死因は胃癌であった 


鉄舟に「武士道」という万延元年(1860年)に書いた文章がある 


「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る  

鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ」


とあって、鉄舟が初めて武士道という言葉をつくった、あるいは初めて注目し宣言している 

このあと、武士道は「形か、心か」、「善を知ることか、善を行うことか」といったことが問われ、

結局、


武士道は心を元として形に発動するもの


と書いている  


鉄舟は文人ではない 

では、武人だったかというと、一刀流の十二代目を継いで、かつ「無刀流」をおこした開祖である 武人であるがまったく戦闘性闘争性はなかった 

人を斬った経験もない それでも剣の達人として恐れられたのは、ひたすら研鑽していたからである 


そして偉大な書人でもある 

その書もまた武士道であった 

生涯、修行者のようなひとだった 

とことん追求した 

禅者であり精神の武人であった 

ただただ自己実現をめざした 


鉄舟が安政5年に綴った「修心要領」は、鉄舟が考えた武士道が敵を討つためのものではないことが明白に述べられている 


「世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし 余の剣法を修むるや然らず 余は此法の呼吸に於て神妙の理に悟入せんと欲するにあり」 


剣は勝負を争わず、心を澄まして胆を練り、自然の勝を得るを要す と説いている  

世の中で剣法といえばおそらく大半が敵を斬り倒し殺すためのものであるが、自分の剣法は人を斬るためではなく、呼吸の神秘を会得するためだという 

これは剣法が自分の大悟のためだけにあることを意味した 

その呼吸は、すなわち 禅であり、 

無敵 なのである 

敵がいない 武士道に敵はないという理念だった 武士道は敵を作らない 無敵の生涯であった 

鉄舟の剣法が「無敵の剣法」といわれた所以である 


こうした鉄舟の純粋武士道ともいうべき探求が、やがて 新渡戸稲造 や 内村鑑三 に武士道の精神をよびさまし、現在の対キリスト教的思考、倫理感の概念の武士道が世界に示されたと云ってよい 

大日本武徳会、嘉納治五郎の講道館柔道など明治武道武芸の引き金になったことも明らかである 


鉄舟は、その潔さ、美しさ 

最後の最後までサムライであった


武士道とは、

心を元として形に発動するものである


谷中、全生庵に眠る 


戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」 

没後に勲二等旭日重光章を追贈された

                      

                                     全生庵 山岡鉄舟の墓碑



敬称を略させていただきました



武士道とともにあらんことを

May the Bushido be with you.


剣禅一如に関する主なる参考引用資料

「剣と禅」 大森曹玄 著 春秋社 

「剣の精神誌」 甲野善紀 著 新曜社刊  

「沢庵の不動智神妙録に学ぶ 禅の心剣の極意」 鎌田 茂雄 著 柏樹社刊  

「沢庵」 水上 勉 著 中公文庫 

「命もいらず名もいらず」 山本兼一 著 集英社文庫 

「利休にたずねよ」 山本堅一 著 PHP文芸文庫 

「利休百首」 井口海仙 著 淡交社 

「山岡鉄舟 剣禅話」 山岡鉄舟 著 高野 澄 翻訳 タチバナ教養文庫刊 

「山岡鉄舟」 大森曹玄 著 禅ライブラリー 

「山岡鉄舟の武士道」  勝部真長 著 角川ソフィア文庫 

「剣と禅のこころ」 佐伯衆一 著 新潮新書刊 

「禅と日本文化」 鈴木大拙 著 北川桃雄 対訳 講談社インター ナショナル刊  

「禅ってなんだろう」 藤原東演 著 淡交社刊 

「利休の風景」 山本兼一 著 淡交社 

「春風無刀流」 津本陽 著 文春文庫



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