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山岡 鉄舟  やまおか てっしゅう


幕臣の子である 

天保7年(1836年)7月、御蔵奉行の小野朝右衛門高福(六百石)の四男として生まれた 名は高歩(たかゆき)、通称は鉄太郎という 身長は190センチ近く、体重は100キロを超える巨漢であった 


朝右衛門が飛騨高山の郡代になったので、共に高山に行き、北辰一刀流の井上清虎について剣を、岩佐一亭について入木道の書を習い、安政2年(1855年)講武所に入って腕を磨き、千葉周作をはじめ諸流に学ぶが、文久元年(1863年)浅利又七郎義明に出会ってから剣に迷いが生じ独力で研鑽を積んだ  同じ文久3年、若死にした槍の名人山岡静山の妹、英子(ふさこ)と結婚、山岡家を継いだ 静山の弟は先に高橋家を継いだ泥舟(でいしゅう)、鉄舟と泥舟は義兄弟となる 

幕末の三舟とは、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟 をいう 


安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜とする「虎尾の会」を結成し、文久2年(1862年)、江戸幕府により浪士組が結成され取締役となる 文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る 

清河暗殺後は謹慎処分 この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする 剣への求道が一段と厳しくなり、迷った鉄舟は禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになる 元来仏法嫌いであったらしいが、高橋泥舟の勧めもあり、禅は長徳寺(川口)の住職である順翁について学んだ 

慶応4年(1868年)戊辰戦争が始まり西郷隆盛率いる官軍は3月15日、江戸総攻撃とした 江戸城下が戦場となる事を避ける為に江戸無血開城を決した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった そこで、鉄舟に白羽の矢が立った

 德川慶喜の新政府に殉教する旨の意を受けた鐵太郎は、江戸城総攻撃中止交渉の使者として 勝からの書状を携え駿府へ向かう 3月5日、途中、清水の手前の薩埵峠において新政府軍に遭遇したが、茶屋 望嶽亭藤屋に逃れ、海路 清水へ入る 以後、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府に通る!」と叫び虚をついて官軍関所を強行突破した話しは有名である 慶応4年(1868年)3月9日、駿府(静岡県)で西郷隆盛と会見、勝・西郷会談の下地をつくった 駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む この際、西郷から7つの条件を提示される それは、


一 、 慶喜儀、謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ御預け仰せつけらるべき事 ( 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること )
一 、城明け渡し申すべき事 ( 江戸城を明け渡すこと )
一 、軍艦残らず相渡すべき事 ( 軍艦をすべて引き渡すこと )
一 、軍器一宇相渡すべき事 ( 武器をすべて引き渡すこと )
一 、 城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事 

  ( 城内の家臣は向島に移って謹慎すること )
一 、 慶喜妄挙を助け候面々、厳重に取調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事  ( 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること )
一 、玉石共に砕くの御趣意更にこれなきにつき、鎮定の道相立て、若し暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、官軍を以て相慎むべき事  ( 暴発の徒が暴挙し手に余る場合、官軍が鎮圧すること )
右の条々実効急速相立ち候わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事 ( これら条件が即ち実効されるならば徳川家家名については寛大な処置がなされるであろう ) 



このうち最初の条件だけを鉄舟は拒んだ  

西郷はこれは朝命であると凄んだが、鉄舟は、もし西郷の前の主君、島津斉彬侯が徳川慶喜と同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れ安閑には居られないないはずであると反論した 

さすがに西郷はこの論理をもっともだとして、慶喜のことは任せてくれと認めたのである 

西郷は山岡に真の武士( もののふ )の姿を見た。 

後にその山岡鐵太郎の行動力を、西郷をして


金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない


と賞賛せしめた 

江戸無血開城は勝海舟ではなく実質、鉄舟の働きと言ってよい 


内戦の危機から日本を救った 


維新後、駿府で静岡県権大参事(しずおかけんごんのだいさんじ)、茨城県参事、伊万里県( 現在の佐賀県 )知事を歴任して過ごすが、明治5年(1872年)、勝海舟と大久保忠寛の強い要請で宮内庁に入った  明治天皇の警護役である  

侍従、宮内少輔、皇后宮亮などを歴任 その間、禅と剣の修行に励み、長いあいだ前眼に立ちふさがっていた浅利又七郎の幻影を突き破り無刀流を宣言するに至る 明治も10年も過ぎれば、実戦として剣は全く無意味になっているが、鉄舟としては一種の人生哲学としての意味をもった 

明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため、東京 谷中に禅寺普門山 全生庵 を建立する 明治18年(1885年)には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開き、自宅に 春風館 道場を開いた 「無刀流剣術は勝負を争わず、心を澄まして胆を練り、自然の勝を得るを要す」と説いている   


無我無私、真っ直ぐなひとである 

愚直と思われるほど純粋である 

自らを利せず周りに隔てなく分け与えることで、いつも貧く、ボロ鉄 と呼ばれた 


鉄舟の剣は凄まじく、伝説の400本の連続稽古など猛烈であった 精神修養を重んじる剣道観は近代剣道の理念に影響を与え、現在も鉄舟を私淑する剣道家は多い  

平成15年(2003年)、鉄舟は全日本剣道連盟の剣道殿堂に顕彰された 


禅は竜沢寺(三島) 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、修行の道を求め、臨済宗天竜寺(りんざいしゅうてんりゅじ)の適水禅師(てきすいぜんし)から印可 を受けて大悟したという  

 禅道の弟子に落語家の 三遊亭圓朝 らがいる また今北洪川、高橋泥舟らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した


書は人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される 一説には生涯に100万枚書したとも言われている パンの木村屋本店の称号は鉄舟の揮毫によるものである 


逸話には事欠かない 

子供のころの誓詞が残っている 


1.嘘いうべからず候

2.君の御恩を忘るべからず候

3.父母の御恩を忘るべからず候

4.師の御恩を忘るべからず候

5.人の御恩を忘るべからず候

6.神仏並びに長者を粗末にすべからく候

7.幼者をあなどるべからず候

8.己れに心よからざること他人に求むべからず候

9.腹を立つるは道にあらず候

10.何事も不幸を喜ぶべからず候

11.力の及ぶ限りは善き方につくすべく候

12.他を顧みずして自分をよきことばかりすべからず候

13.食するたびに稼しょくの艱難を思うべし すべて草木土石

 にても粗末にすべからく候

14.ことさらに着物をかざり あるいはうわべだけをつくろう

 ものは 心に濁りあるものと心得べく候

15.礼儀を乱るべからず候

16.何時何人に接するも客人に接するように心得うべく候

17.己れの知らざることは何人にでもならうべく候

18.名利のために学問技芸すべからず候

19.人にはすべて能、不能あり いちがいに人をすて或は笑う

 べからず候

20.己れの善行を誇り顔に人に知らしべからず すべて我が心

 に恥ざるに務むべく候 


ここまででは真面目一本やりの融通の利かない堅物のようにも映る、がそうではない 


明治元年8月、箱館を目指す幕臣たちを乗せた咸臨丸が難破船同然の姿で清水港に入った時、駿府藩は何が何でも、彼らを説得し箱館行きを中止、降伏させねばならないとしたが、駿府藩がもたもたして1ヵ月も空費している間に、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃の上、艦に残っていた副艦長春山弁蔵ら7人を斬殺した 無抵抗のまま斬殺された7人の死体は、海中に投棄された 

駿府清水に船荷役を取り仕切っていた次郎長という男がいた 清水の次郎長である 次郎長は7人を向島の松の木の根もとに手厚く葬った 

「死ねば仏だ 仏に官軍も賊軍もあるものか」

鉄舟は、次郎長は単なるバクチ打ち、ヤクザ渡世人、極道の親分、官軍が駿府に駐留している間、市中警護役として御用をつとめた男、いわば二足の鞋(わらじ)をはく目明かしか岡っ引きぐらいに思っていた 

 ところがそうではない その言、その行動からすれば、次郎長の頭の中には、薩長とか徳川、あるいは征服者とか被征服者といった考えはない あるのは、人間として正しいか、正しくないか、正か、邪かといった物差しだけである 鉄舟は心底から参ってしまう 次郎長と鉄舟の親交は、この咸臨丸事件から鉄舟の亡くなる明治21年まで続いた 


吉原に足繁く通い、性の欲望について真面目に探求し家計が困窮、夫人の懇願によりやめたという逸話もある 


維新前の明治天皇は公家や女官たちに囲まれて、とかく文弱に流れやすい環境にあったが、西郷隆盛はこれを問題視して、明治天皇を近代国家を指導すべき、心身ともに強健な君主に育てようとした そのために、それまでは天皇の側近に侍する者は貴族に限る、というしきたりだったのを改め、各藩から勇壮な武士を集めて、側近につけた その一人として幕臣から選ばれたのが、山岡鉄舟であった 若い頃からひたすらに剣と禅の修行を積み、幕末には江戸に迫る官軍に乗り込んで和平を講じ、内戦の危機から日本を救った鉄舟の人格、胆力に西郷は惚れ込んでいた 鉄舟こそ、天皇を育てるべき人物だと考えたのである 幕臣としては彼ひとりであった

時に、明治5年(1872年)6月、鉄舟37歳の時であった 

明治天皇、弱冠20歳前後の頃である 

ある日、鉄舟たち侍従との酒の席で 鉄舟に相撲を挑まれ、鉄舟を押し倒そうとされた 天皇と臣下、普通なら天皇に勝ちをゆずるであろう しかし鉄舟は、飛び掛られた際に横にかわし、天皇は鉄舟の後ろに倒れてしまわれた 周囲は鉄舟に謝罪を勧めたが、鉄舟はこれに応じず、「陛下と相撲を取ることなど、この上ない不倫であること、わざと倒れるのは迎合することであること またもし、自分が怪我をすれば陛下はどれほど後悔遊ばされるか、もし陛下が私を悪いと仰せられるなら、謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げる覚悟であること、を決然と言う 

明治天皇は鉄舟の言葉をお聞きになり、「私が悪かった」と仰せになったとのことである その旨を伝えられた鉄舟は、「ただ悪かっただけではこの座を立ち兼ねる 何か実行を御示し願いたい」という 困った天皇は、「今後、相撲と酒はやめる」と仰せられた 山岡はそれを伝え聞いて、感涙にむせんで退出したが、そのまま自邸にて謹慎した 一ヵ月後に山岡はようやく宮中に伺候したが、その際に葡萄酒1ダースを献上する 天皇はことのほかご機嫌で、「山岡、もう飲んでもよいか」と仰せられ、山岡の目前で葡萄酒を召し上がったという また、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけるなど、剛直なエピソードが知られている 

明治天皇の信認は厚く10年間、宮中に出仕し侍従として明治天皇に仕えた 


パンの木村屋初代当主 木村安兵衛は水戸藩藩士 鉄舟は木村とは剣術を通じて知り合った 安兵衛と徳川慶喜将軍のお供でしばしば水戸藩に出かけていた鉄舟との出会いだった 茨城から江戸へ出て来た木村は、明治7年に新しく出来た銀座煉瓦街であんぱん作りに熱中していた 鉄舟は木村に試食をさせられると、「これ、うまいじゃないか」とあんぱんの味に折り紙がついた 西洋から入ってきたパンとは違う、酒種を使い、その生地であんを包み焼き上げるという技術が鉄舟の心をとらえた 「陛下に召し上がっていただこう」 

明治8年4月4日、隅田川沿いの水戸藩下屋敷であんぱんが明治天皇陛下へに献上された あんぱんは天皇陛下のお気に召し、ことのほか皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にあった そして「引き続き納めるように」と

両陛下のお言葉を頂いた 

この年、

鉄舟は「木村家」の看板を書

いて贈り、現在も銀座本店の

玄関を飾る 


直筆の書は大正12年(1923年)関東大震災に焼失しており今はない   

ちなみに、この日、4月4日は あんぱんの日 として2001年に日本記念日協会に登録されている 


鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった 受取書が残っている 

またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした  鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま木箱に突っ込んでおいた そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、木箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた しばしばそういう場面を目撃した弟子が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と聞くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた 一説には生涯に100万枚書したとも言われている 

鉄舟はずっと貧乏であった 

しかもそれを苦にさえしていない 

ボロ鉄 は蔑称ではない 

尊敬の愛称である


鉄舟の死について勝海舟がこう言っている 

「山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行

った 明治21年7月19日のこととて、非常

に暑かった おれが山岡の玄関まで行くと、

息子、今の直記が見えたから「おやじはどうか」というと、直記が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している 

おれは座敷に立ちながら、「どうです先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、「さてさて、先生よくお出でくださった ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた それでおれも言葉を返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った

 その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ

絶命してなお、坐をなし、びくとも動かなかったそうだ」… 


山岡鉄舟は明治21年(1888年)7月19日、数え年53歳で大往生した 

19日の明けがた、烏(からす)の啼くのが聞こえた 

そこで、

「腹張りて 苦しき中に 明烏」

と辞世の句を吟じた 


午後7時半、浴室に行き、身を清めて、白衣に着替えた 

9時、一度病床に正座した後、皇居の方に向かって結跏趺座した 

9時15分、周囲のすすり泣きの中、瞑目して往生した

皇居を向き、結跏趺坐のまま絶命 

死因は胃癌であった 


鉄舟に「武士道」という万延元年(1860年)に書いた文章がある 


「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る  

鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ」


とあって、鉄舟が初めて武士道という言葉をつくった、あるいは初めて注目し宣言している 

このあと、武士道は「形か、心か」、「善を知ることか、善を行うことか」といったことが問われ、

結局、


武士道は心を元として形に発動するもの


と書いている  


鉄舟は文人ではない 

では、武人だったかというと、一刀流の十二代目を継いで、かつ「無刀流」をおこした開祖である 武人であるがまったく戦闘性闘争性はなかった 

人を斬った経験もない それでも剣の達人として恐れられたのは、ひたすら研鑽していたからである 


そして偉大な書人でもある 

その書もまた武士道であった 

生涯、修行者のようなひとだった 

とことん追求した 

禅者であり精神の武人であった 

ただただ自己実現をめざした 


鉄舟が安政5年に綴った「修心要領」は、鉄舟が考えた武士道が敵を討つためのものではないことが明白に述べられている 


「世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし 余の剣法を修むるや然らず 余は此法の呼吸に於て神妙の理に悟入せんと欲するにあり」 


剣は勝負を争わず、心を澄まして胆を練り、自然の勝を得るを要す と説いている  

世の中で剣法といえばおそらく大半が敵を斬り倒し殺すためのものであるが、自分の剣法は人を斬るためではなく、呼吸の神秘を会得するためだという 

これは剣法が自分の大悟のためだけにあることを意味した 

その呼吸は、すなわち 禅であり、 

無敵 なのである 

敵がいない 武士道に敵はないという理念だった 武士道は敵を作らない 無敵の生涯であった 

鉄舟の剣法が「無敵の剣法」といわれた所以である 


こうした鉄舟の純粋武士道ともいうべき探求が、やがて 新渡戸稲造 や 内村鑑三 に武士道の精神をよびさまし、現在の対キリスト教的思考、倫理感の概念の武士道が世界に示されたと云ってよい 

大日本武徳会、嘉納治五郎の講道館柔道など明治武道武芸の引き金になったことも明らかである 


鉄舟は、その潔さ、美しさ 

最後の最後までサムライであった


武士道とは、

心を元として形に発動するものである


谷中、全生庵に眠る 


戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」 

没後に勲二等旭日重光章を追贈された


 









                             全生庵 山岡鉄舟の墓碑





仁 義 礼 智 信

温 良 恭 倹 譲


武士道とともにあらんことを

May the Bushido be with you.

 



敬称を略させていただきました



Episode  1  すべてはここから 


Episode  2  剣禅一如


新渡戸稲造 著  Bushido,the Soul of Japan




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剣と禅  其の3  最後のサムライ


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