居合塾.jp

 
 

高橋赳太郎と 流祖 中川申一


ではなぜ無外流が剣術でなく居合術で有名になっていったのでしょう 

第十代 無外流宗家 高橋赳太郎高運 たかはしきゅうたろうこううん (1859 〜 1940)は 安政六年7月に高橋哲夫武成の長子として姫路に生まれました 後に六代宗家と記される 姫路藩の  高橋八助充亮 は、土佐で無外流四代 記磨多資幸充亮  に無外流剣術を学び 自鏡流居合は 五代 山村司昌茂 から学んでいます   

 高橋赳太郎高運は高橋八助充亮の四代の孫にあたります 早くから、父哲夫武成から無外流兵法、津田一伝流剣術、自鏡流を修めました  

 赳太郎高運は、その後警視庁に入り、高野佐三郎 川崎善三郎 とともに剣術では 

三郎三傑 と称されるようになり、明治36年(1903年)になると、設立されたばかりの神戸高等商業学校(神戸大学法・経済・経営学部の前身)の初代撃剣師範(後に、終身師範)、兵庫武徳会の主任教士も兼任します

明治末の兵庫武徳会で、神戸一中(現・県立神戸高校)の学生だった 中川申一 なかがわしんいち(1895 ~ 1981) と出会います 

 この頃は、まだ学校の授業の科目として、あるいは撃剣(剣道)部の稽古を通じての師弟の関係でした しかし、中川申一が神戸高商に進学すると、本格的に無外流兵法を教授することになります 


高橋赳太郎高運は、日本と世界が泥沼の戦争に進んでいた昭和15年(1940年)に、82歳の天寿を全うしました 亡くなる二年前、すでに『無外流居合』と名を変えていた自鏡流居合の坐技「本腰」「片腰」「向抜」「左」「右」「六本目」「七本目」の七本の形を自ら演武した、16ミリフィルム映像を残したようです(未確認) また、   


自鏡流第五代宗家 山村司昌茂 に居合を教わり、無外流の稽古に本格的に取り入れたのは、 高橋八助充亮とその弟である秀蔵そして 髙橋達蔵から、髙橋八助成行、髙橋哲夫武成、髙橋赳太郎高運へ伝承されます 

土浦藩から継承された自鏡流居合を、『無外流居合』と呼んだのは、姫路系では高橋赳太郎高運が最初と思われます 高橋伝無外流兵法の「刃引之形」五本と、この七本の型は、 高橋赳太郎高運 の孫、高橋秀三 により無外流居合術として業が伝えられました

こうして、失伝の際にあった無外流剣法は姫路という地に置いて復活します 髙橋赳太郎、中川申一に受け継がれ、形を変え、やがて 居合「無外眞傳無外流居合兵道」として世に出ることとなります 


髙橋赳太郎高運の唯一の弟子、であった、

中川士龍申一によって坐の業(技 )「五用」「五箇」、立ち業「五応」 「走り懸り」20本と、内伝 3 本の合わせて23本と、剣法型(組太刀)「太刀打之型」5本「脇差之形」5本の 10本 計33本の型で創作され構成されます


中川士龍申一は、高橋赳太郎高運とともに愚渓禅師について禅の修行にも励みます 中川士龍申一は学究肌の武道家でした 昭和13年には 無外全集 の書で 髙橋赳太郎高運 のフィルムの解説や辻月丹の伝記、居合目録等を残しています 

中川申一の無外流免許皆伝書 は戦災で消失したとされ、後に 大森曹玄師 が写し持っていた伝書の写しで 流派の系統をまとめ宗家系列がなったのです 

中川士龍申一は、無外流髙橋派を都治無外流宗家系列として系統付けしなくてはならなかった ... 

 しかしなぜ無外流剣法の伝承でなく、中川士龍申一は居合を選んだのでしょう? 中川士龍申一 は、高橋赳太郎高運から 無外流免許皆伝書 を受け、後継者として正式に指名されたのか? 高橋赳太郎高運に剣を学び始めたころ、無外流剣法を学ぶ弟子は、中川自分ただ一人であったと回顧しています  


すでに剣道という道が開かれ、剣術は時代にそぐわない存在となっていました 無外眞傳無外流居合兵道が  自鏡流居合そのものであったか? 実際、無外流剣法は髙橋赳太郎高運から中川士龍申一に伝えられたのか ...? 不明です 口伝とはいえ、伝えられたとすればなぜこれを明らかに残さなかったのか? 


中川士龍申一の研究は、後に 無外流居合兵道解説 直伝兵道考 等 理論も後世に残されました このように一つの流派を系統だててその業を掘り起こし創作を交え明文化した無外流居合は、古流として残りました 無外流中興の祖 と称される所以です 

 どのように無外流の型を編纂し、無外流居合兵道を創始したかについては、高橋赳太郎高運の紹介で、土佐の  無外流教士であった 川崎善三郎重徳 かわさきぜんざぶろうしげのり(1860 〜1944)にも師事し、無外流居合兵道の立ち技「五応」は土佐系無外流の影響を強く受けたようです  

とくに「両車(りょうぐるま)」「野送(のおくり)」の二本は川崎善三郎重徳の影響が強いようです 


無外流剣法は 組太刀 太刀打ちの型、脇差しの型として10本が残されます 


無外流剣法の大方は江戸後期から大正、昭和、戦後にかけてに失伝していったとしてよいでしょう  


無外流高橋派では併伝している自鏡流居合には坐位から抜刀する業しか無かったが、中川士龍申一が再編した無外流居合兵道の内容は立居合も多く含まれており、高橋派の無外流居合術とは大きく異なります 

無外流は突きと逆袈裟斬りが主体とされ、

徹底して華美を排した質実剛健な居合術とされています しかし高橋派の無外流居合術が現在の無外流居合兵道の源流だとすれば、

中川士龍申一の居合兵道の創造性は無外流の特徴が表現されているものです 

第二次戦後、中川申一は全日本居合道連盟の設立に参画し、その後、昭和50年  日本居合道連盟  を結成し、日本居合道連盟初代会長に就任  無外会会長 に就任します  

かくして、無外流は 戦後、剣術剣術の流派としてではなく、居合道の流派として有名となり確立していきます 


無外流居合は、自らを 第十一代宗家とした 中川士龍申一の「創作居合」古流居合とされ、「無外眞傳無外流居合兵道」「造語」で残されます 


著書は、

 無外全書 

 高橋先生八十年史

 無外流居合兵道解説 

 無外真傳兵道考 

 無外流居合兵道指針 

 無外庵随想     などがあります


昭和56年(1981年)1月2日、中川士龍申一は86歳で生涯を終えました 

法名は龍翁院申道一剣居士 


極真空手の 大山倍達 おおやまますたつ(1923 〜1994)は無外流居合兵道を見て、「日本には居合の流儀はいくつもあるが、無外流ほど実戦的な居合はない」と評したといわれています 



自鏡流の系譜       

 

  多賀自鏡軒盛正     

  佐々木龍谷子      

  山村荘蔵昌豊      

  山村郷助昌周      

  山村司昌茂             

  山川弥兵能彖     

                

無外流の系譜 

  辻 月丹資茂(無外流剣法 流粗) 

  都治記摩多資英 

  都治文左衛門資賢 

  都治記摩多資幸  

  都治文左衛門資信 

  

  髙橋派

  高橋八助充亮 

  高橋達蔵充玄 

  高橋八助成行 

  高橋哲夫武成

  高橋赳太郎高運

  高橋秀三 


無外眞傳無外流居合兵道

  中川士龍申一( 流祖 )

      中谷泉牛義太郎

      石井悟月善蔵   ?

      塩川寶祥照成   ?

  

 


 Welcome へ



むがいじきでんむがいりゅういあいへいどう

無外眞傳無外流 居合兵道


無外流居合とは

定説として自鏡流居合とされています 

無外流居合流祖が 辻 月丹 であるというのは正しくありません


無外流は居合の武術ではなく剣術( 兵法 )の流派でした 

無外流剣術の指南役が指導していたため、一般に無外流居合と称していました その無外流兵法の剣風は 先々の先で激しく攻撃的であったようです つまり、剣風として対敵より先に攻撃を仕掛けるという単なる動作の上のことだけではありません 相手の心の動きを見透かして打突する、という攻め以前の心理能力が問われる剣法として有名な剣術兵法であったのです 


無外流に居合が併伝されるのは、無外流剣法流祖 辻月丹 つじげったん が自鏡流居合の祖・元水戸藩士 多賀権内盛政 について自鏡流居合を学び、辻家代々自鏡流 宗家の指導を受けていたという説があり、辻月丹よりもずっと後の寛政年間の播磨姫路藩・酒井家において、自鏡流居合という土浦藩の居合流儀を取り入れてからとされている説もあります いつの時代から自鏡流居合を稽古に取り入れて修行したかは定かではありません ただ、当時の武士の間では複数の流派の剣術を稽古するのはごく普通、抜刀術である居合を併習稽古することは当時から人気がありました