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臼井 六郎 うすいろくろう(1858 〜 1917)
プロローグ
こ奴だけは生かしておく訳にはいかぬ。
決してこの恨み晴らさずおくものか!
仇討ち(あだうち)、敵討(かたきうち)のことをこれから綴う
怨恨、復讐のことがらである
日本人はこの仇討ちが大好きだ
日本の三大仇討ちというものがあるのをご存知だろうか?
1193年 鎌倉時代、曾我祐成、時致(そがすけなり、ときむね)の兄弟が
亡き父親の無念、工藤祐経(くどうすけつね)を富士の裾野で果たす
“ 曾我兄弟の仇討ち”
1634年 岡山藩士 渡辺数馬(わたなべかずま)が剣豪 荒木又右衛門(あれきまたえもん)の助太刀を得て同藩の河合又五郎(かわいまたごろう)を弟の仇で討つ “ 鍵屋の辻の決闘 “
そして、1702年 赤穂の浪士47人が亡き藩主の恨みを晴らす国民的敵討ちの物語 歌舞伎、演劇、映画で幾度も扱われてきた “ 赤穂浪士 忠臣蔵 ” である それぞれが長年の辛苦の末に思いを遂げる武士の美学、意地、面子、忠孝の士、武士道の誉れとされた事件である
なぜ、日本人はこのような恐ろしい刃傷沙汰に拍手喝采を与えたのか?
さすがに現代では殺人に関わるこのような事件は皆無で許されない話だが、ドラマや映画アニメに至るまでその仇を討つストーリーは支持され世界にあふれている
高視聴率TVドラマ 倍返しだ! の “ 半沢直樹 ”はどうだ?
世界的にヒットの日本の漫画アニメ “ 鬼滅の刃 ”は?
前者は父親の無念を其の原因をつくったメガバンクに入社してまでも晴らそうとする。後者は鬼に母兄弟を惨殺され、鬼にされた妹を奪還するまでの鬼退治の仇討ちストーリーだ
日本に限らない。英国 W.シェークスピアの “ ハムレット ” は?
1966年の米国映画 H.ハサウエイ監督、スティーブ・マックィーン主演の インディアンハーフの若者が惨殺された両親の敵を追う“ ネバダ・スミス” など数知れないほど多い
ひとはなぜこのような事件に興味をいだき、こころ踊らせ、喝采し、成就に溜飲を下げるのか?
これはひとの性(さが)なのか?
江戸の武家社会はこれを認め法制化に近いまでになる
仇討ち敵討ちは “ 天晴れ ”のことだったのである
これから物語るのは幕末の九州福岡藩の支藩 秋月藩(あきづきはん)で、1880年12月に起きた秋月藩家老 臼井亘理(うすいわたり)妻 清子(きよこ)の暗殺事件
時は明治となり、仇討ちは 1873 年(明治6年)新政府により禁止される そのなかで果たして臼井六郎は13年の後、いかにして目的を果たしたか?
追う者、追われる者、その人生の顛末はいかなるものだったのか ?
山岡鉄舟、勝海舟との関わりなどもみつめていく。
無惨に殺された父母の仇を討つその長男 臼井六郎(うすいろくろう)の青春である
エピソード1
筑前秋月藩考
この物語の舞台は、福岡県中部に位置する朝倉市の一部、秋月と呼ばれた地区と東京である
筑紫平野と筑豊地方の境にそびえる古処山(こしょさん)の麓、山々に包み込まれ守られたその山すそに旧秋月は静かに佇む
九州の古き小さな町、しかし、同時にそこには小藩ならではのもろさ弱さがあった
秋月という所領5万石の小藩の誕生から消滅まで
の物語をまずみてみよう
養生に関する指南書を書いた江戸時代の儒学者・
貝原益軒(かいばらえきけん)という名を聞き覚
えておられるだろうか 「養生訓」(1713年)
身体ばかりでなく精神の養生健康法を説き愛読さ 貝原益軒(1630 〜 1714)
れた 益軒はその著書 『筑前国続風土記』の中で、妻・東軒(とうけん)の故郷、秋月の町の様子をこう表している
「この里(秋月)、山林景色うるわしく、薪水の便よく、材木乏しからず。かつ、山中の土産多きこと、国中第一なり…」と
古処山の懐にひっそりと佇む城下町秋月。鮮やかな
紅葉に彩られた黒門、桜舞う杉の馬場、緑萌える
古処の山々…四季の自然と歴史が解け合った艶やか
な景観 その様は、九州の小京都とも称される
黒門
中世、秋月は鎌倉時代から豊臣秀吉の九州平定まで、
約380年、古処山の山城を主城とする秋月氏の拠点と
して栄えた
江戸時代、この地を治めたのは秋月黒田家である
福岡藩から独立して秋月へやって来た 筑前秋月藩
は成立した当初から、常に、福岡黒田藩の監視を受け、 杉の馬場道
動向を探り探られる運命にあった その興亡の物語には、小藩ならではの喜び、悲しみ、そして苦しみがあった
天正15年(1587)、九州制圧を狙う島津氏を討つために豊臣秀吉が九州入りし平定した この戦いで秋月氏は島津方についていたため、日向(宮崎県)高鍋に転封されてしまう その後、筑前国は関ケ原の戦いで功績を上げた黒田家の領地となり、秋月もその一つに含まれていた
元和9年(1623)、黒田藩初代藩主・黒田長政(くろだながまさ)が死亡
彼の遺言によって、秋月5万石は三男・黒田長興(ながおき)に与えられた
しかし、二代藩主に着任した兄・黒田忠之(ただゆき)は、秋月の独立を快く思わず今まで通り、秋月を福岡藩付属の小国としていたかったのだ
そこで、将軍に秋月独立を伝えるため江戸登城しようとした長興を差し止める
「独立をやめれば5万石を10万石にしてやる」との条件を説く一方で、江戸までの要路に警戒の兵を出す福岡藩 それに、断固として反抗し策を練ったのが、長興とともに黒田家から秋月入りした家老・堀平右衛門(ほりへいえもん)であった
黒田長興とともに堀は、密かに秋月を出発し、夜闇に隠れ、漁師の格好で警戒の目をくらませた 豊前小倉細川藩の助けもあり、無事警戒線を突破
寛永3年(1626)、長興は初めて二代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)に拝謁し、同11年(1634)には福岡藩の支藩として5万石の朱印状を与えられた この時、藩主・黒田長興は14歳
5万石の小藩であるため、財政基盤は弱く、農民は常に風・水・虫害飢饉に悩まされた
努力が実を結び、秋月藩は外様大名として誕生した。以前、秋月氏の館であった梅園の建物を修理して陣屋城とし、周辺に城下町を作り上げた。天守などはない
もちろん藩主は、支藩といえど他の諸大名と同様に
江戸に参勤した。参勤交代による江戸と秋月との二重
生活、そして諸役の賦課は、秋月小藩の財政に大きな
圧力となり迫る
財政窮乏 これは、秋月に限らず全国歴代藩主の頭を 江戸藩邸(右側)
悩ませた大問題だった
秋月藩246年の中で、一番財政が豊かだったのは宝暦~
天明期(1751~1788)だったという時 の指導者であ
った家老・渡辺典膳(てんぜん)は、安永元年(1772)
に建白された「国計大則」で支出の各項目ごとに必要額
を定め、支出を制限。一部を備蓄金として蓄えた 質素
倹約を旨とし、家老以下の妻子は門外ではすべて綿服、
食事の内容まで細かく指示するなど家臣の生活までにも
口を出している
この労もあり、明和元年(1764)から天明3年
(1783)の20年の間で2万金が蓄えられている
八代藩主長舒(ながのぶ)の時代である
現在 麻布十番あたり
黒田長舒の先代、七代藩主・長堅(ながかた)は、6歳で藩主になり、16歳でこの世を去っている この時、秋月は次の跡継ぎがいないという事態に陥った これを福岡藩が黙って見過ごす訳はない 秋月藩を廃する計画を立てるが、家老・渡辺典膳らによってどうにか藩取り潰しの危機は免れたが、もちろんただでは済まなかった 代償として福岡藩が幕府から任ぜられていた長崎警備役を代わりに務めなければならなくなる
若き藩主秋月幸三郎長舒は明和2年(1765)、日向高鍋藩主・秋月種頴(たねひで)の二男に生まれる 秋月氏は黒田氏の前まで秋月の地を治めていた名家である さらに秋月長舒は秋月藩四代・秋月長貞の曾孫に当たり、秋月・黒田家の血もひいていた 若いころから高い評価を得ていた長舒は、藩が蓄えた莫大な金銀を使い、20歳になった彼を藩主として迎え入れたのである
備蓄金が後ろ盾。長舒は心置きなく手腕を振るった
当時、危機的な年貢減少に直面していた幕府や諸藩は、農民労働力の増大をはかるため、子の間引きを禁止した 長舒もまた、妊婦は庄屋に届けさせ、子育ての困難な家庭には養育米を与えた 彼が大事にしたのは、子どもだけではない 暇を見つけては領内を巡り、80歳以上の老人を招いて労をねぎらい、酒食を共にして贈物をしたという
藩の産業の奨励もした。現在も受け継がれる葛(くず)、和紙、焼き物、製糸などの名産品を誕生させたのも彼の功績によるものだ 『筑前国続風土記』(1709年)には、当時50以上もの秋月の名産品が名を連ねている
また全国で藩校が誕生する中、秋月藩には安永4年(1775)に学問所が設けられ、後に稽古館と呼ばれる藩校に拡大する
この時代が秋月藩の黄金期といえる
しかし、九代藩主・長韶(ながつぐ)の時。家老、宮崎織部と渡辺帯刀が苦しい財政にも関わらず公金を湯水のように使ってしまう 「渡辺崩れ」と呼ばれるこの失策で、藩の財政は建て直し不可能なほどの借財を背負ってしまう しかも追い討ちのごとく、飢饉に見舞われる。もはや福岡黒田藩に頼るほかなく、文化9年(1812)、福岡藩から秋月御用請持ちと呼ばれる者が派遣され、本藩の直接的な政治介入を受けるようになる
こうして、秋月藩の完全独立は、約190年で終止符が打たれた
希望を持って独立した秋月であったが、このときほど小藩の悲哀を実感したことはなかっただろう
福岡藩直接介入という事態のまま、秋月は幕末を迎えた
秋月は山に囲まれた密かな地。外との交流が少なかったため、心移りせず伝統を守り続けるという素朴で純朴さゆえの『井の中の蛙』になる傾向があったといえる
そして迎える幕末、新しい時代の幕開けに際して、この地の風土が秋月の人々の進歩を更に妨げた 幕末の日本は、尊王攘夷のかけ声のもと西洋列強の侵略の脅威に備え、西洋新技術を貪欲なまでに吸収していこうとした時代、秋月にも洋式軍備装備の必要性を説いた藩士、臼井亘理(うすいわたり)がいた
しかし、余計な思想を運び込む彼を除かねば、藩政改革は断行できぬ
若い藩士らの手によって彼は惨殺される
さらに廃藩置県の後、次々と新政策を押し付ける明治新政府に対して、九州の各地で不満が爆発する 1874.2月 佐賀の乱。1876.10.24 熊本・神風連の乱(廃刀令は1876年)1877.02.15 鹿児島・西南の役
秋月でも、このままでは自分たちの武士身分がなくなると感じた者たちが「秋月の乱」 1876年(明治9年) と呼ばれる反乱を起こす この乱の参加者は255人にも及んだ
しかし、すべて鎮圧され怒濤のごとく明治維新はなされるのである
こうして、秋月藩は消滅する
そのなか、一人の若者が故郷の秋月を離れ、ひとり一路、東京へ向かう
母、清子の形見の短刀を懐に忍ばせて ...
つづく
無外流は 真 を持って宗とすべし
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武士道とともにあらんことを
May the Bushido be with you.
Way to go.
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武士道異聞
最後の仇討ち